臨済宗 妙心寺派
金寶山 開善院
臨済宗 妙心寺派
開善院について
開善院は応仁2年(1462年)に美濃守護代斎藤妙椿が、悟渓宗頓の求めに応じて守護土岐成頼の為に瑞龍寺を建立しました。そして、自らの菩提寺として悟渓が【開善院】と名付け開山として興した寺です。妙椿没後、悟渓八哲の大猷慈済(興宗宗松)が開基となりました。以後560余年を経ております。
また、大正13年(1924年)大本山妙心寺14代管長となった、霧隠軒川嶋昭隠が得度修業した寺です。
川嶋昭隠 老師について
川嶋昭隠は1865年 岐阜市正木の生まれ。11歳で、開善院 則門和 尚について得度、弟子となりました。16歳で伊深 正眼寺僧堂に掛塔しました。1891年 濃尾地震の時は倒壊した開善院の後片付けをし、則門和尚の居室を建造しました。その後、京都、岐阜で、多くの師について勉学に励み、42歳で、大徳寺僧堂の師家になりました。近衛文麿、前田利為、細川護立、さらに、表千家12代家元 惺斎などの参禅帰依もあり道声が大いに高まった。又、表千家との繋がりは深く、11代家元 碌々斎の画像の賛も書いています。その後、52歳で正眼寺住職となり1924年59歳で、本山妙心寺14代管長となりますが、志半ばで遷化しました。
近代の歴代住職のご紹介
17代住職 元光
18代住職 敏光
19代住職 良光
ゆかりのある武将にして僧、斎藤妙椿
開善院にゆかりのある人物として最初に挙がるのが、室町時代から戦国時代にかけて活躍した「斎藤妙椿」です。
妙椿は美濃の守護代、斎藤宗円の次男として誕生しますが、早くに出家して僧としての修行を積みます。一方、斎藤宗円は暗殺されてしまい、妙椿の兄である斎藤利永が守護代となりますが、1460年(長禄4年)に病没。息子の斎藤利藤が後を継ぎ、その後見役となったのが妙椿です。
妙椿は信仰心の篤い僧であると同時に、文武両道の誉れが高い人物です。彼は美濃において無視できない存在となり、その影響力は利藤を抑えて守護代となり、守護土岐氏を凌駕しました。応仁元年(1467年)に「応仁の乱」が勃発すると、西軍の妙椿は次々と戦果あげ、美濃・尾張・伊勢を支配下に治めました。「東軍・西軍の勝敗は妙椿の動き次第で決まる」と大乗院寺社雑事記に書かれるほどの活躍をしています。
文化面でも、戦乱で荒廃した京から、一条兼良、連歌師専順、宗祇らを招き連歌会を開催しています。妙椿も和歌に精通していたので、郡上篠脇城を占領したおり、城主東常縁が古今伝授の第一人者であったので、和歌十種に切なる願いを託して妙椿に送り、妙椿からも返歌とともに占領地を返した美談が残っています。又、足利義視、義材を庇護して大きな野望を持っていたようです。
斎藤妙椿画像
ご供養・お墓について
当院では、故人を偲びご供養する葬儀、法要を心を込めて執り行っております。また、墓地や永代供養墓もございます。
《行事のご案内》
大般若会 1月3日
臨済忌 1月15日
斎藤妙椿忌 2月21日
春彼岸法要 3月21日
開基大猷忌 6月21日
施餓鬼会法要 7月9日
秋彼岸法要 9月20日
開山悟渓忌 10月5日
だるま忌 11月5日
山里霊廟(永代供養墓)
山里霊廟(永代供養墓)
お墓は複数の世代に受け継がれる家族の供養塔。大切な故人のお墓を開善院が長きに渡って管理・供養いたします。宗旨は問わず、生前のお申し込みも可能です。
年1回の供養会を行っております。
また、墓地もございます。
お問い合わせはこちら
TEL.058-246-1838
アクセス
臨済宗 妙心寺派
金寶山
開善院
〒500-8118 岐阜県岐阜市寺町19
TEL.058-246-1838
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岐阜市コミュニティバス「殿町3丁目・金園町4丁目」停留所から徒歩1分
【お車でお越しの方】
駐車場がございます